2012年8月27日月曜日

2007年 沖縄旅行記 第七章 首里城

食事をしながら今日行きたい場所を話し合っていたのですが
やはり首里城は抑えておかないといけませんよね。
ということで今回は首里城です。







行ってみると首里城は先ほどのお店から直ぐ近く。
あっという間に到着です。



<13:25 首里城駐車場到着>


現在の首里城公園の模型がありました。




瑞泉門から内郭に入城します、城の規模は小規模ですね。


関東で言えば小田原城と同じくらいの規模です。
関西で言えばどのくらいでしょうか?関西のお城の規模がわからないので答えられませんね。
三山時代を越えて安定期に作られたお城ですから攻撃性や防御ではなく開けた感じがします。
さすが貿易の国ですね。


その後、入場料を支払い本丸に入ります。

<13:40 本丸入場>

奉神門を通過すると開ける御庭(うなー)には宮殿作りの正殿と両サイドにそれぞれの建物が建っています。


向かって右側は薩摩の使者を迎え入れる施設。左側は中国の使者を迎え入れる施設だったようです。
中国の影響を色濃く残しているようですが実質は薩摩の支配下にあったといわれます。
鎖国当時薩摩は琉球を通じて世界交易を行っていました。そのため薩摩は日本国のほかの藩に比べ莫大な資金力を蓄えることが出来ました。
薩英戦争、戊辰戦争、西南戦争やら幕末にやんちゃできたのも琉球のおかげなのでしょう。

正殿を見ると建物全体はまるで紫禁城の小型版のようです。
しかし真ん中の唐破風を見ると日本の城に見られる設計が施されていますね。
この作りが日本、中国の影響を受けた証拠といわれているんですね。


元々この首里城は戦前まで本物がそのまま建っていました。
しかし太平洋戦争にで被災し殆どが崩壊。
その跡地に琉球大学が建設されたため復興も出来ない状況だったようです。
ところが1979年、琉球大学が移転したため跡地に首里城を復興させたようです。

首里城復興は沖縄民の民族意識を高めたといわれ。
今では彼らのアイデンティティを集める場所になったわけです。
欧米列強がアジアにウロウロし始めるまではそれこそ大海洋国家だった琉球、その琉球民の血が滾るというわけです!
素晴らしいですね。

さて薀蓄はココまで!
次回はいよいよ正殿に侵入です!

ここで作成したMMDポーズデータをダウンロードいただけます。


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